奏やんの音楽旅行
令和7(2025)年8月23日(土)常盤アリーナ 小ホール


   
このコンサート(リサイタル)の位置づけと特色

 日本で、ボーイ・ソプラノのソロコンサートのステージは、コンクールの優勝者等が限られた招待客の前で2~3曲歌うことならときどきあるのかもしれませんが、コンサートホール等でリサイタルという形でで1時間を超えて10数曲歌うコンサートとなると、極めて珍しいことです。この日、神戸市の常盤アリーナ 小ホール(138名収容)で行われた「奏やんの音楽旅行」は、変声期を迎える直前の最初で最後のソロコンサートということで、まさに一期一会のコンサートとなりました。さて、奏やんというのは、YouTubeチャンネルやInstagramのネット上のハンドルネームが、そのまま芸名になったようなもので、将来ともこのまま芸名にしていくかどうかは不明ですが、特にInstagramでは、この日の434日前より変声期の進行記録を撮って発信するなど心の準備もしていたようです。現代の日本で、中学3年生までボーイ・ソプラノを維持していること自体が希少価値のあることなのですが、YouTubeチャンネルに残された小学5年生から、中学3年生の最近までの歌を聴き比べると、ボーイ・ソプラノの歌声にも花を愛でるのと同じものを感じることができます。梅や椿のように咲き始めを尊ぶ花もあれば、牡丹や菊のように満開を尊ぶ花もあり、桜のように散り際を惜しむように尊ぶ花もあります。
 これを奏やんに当てはめてみるならば、時間的な重なりはありますが、小学生から中学1年生までのスコラカントラムのコンサートに特別出演するまでが蕾から咲き始め、高音に挑戦し、一人〇部合唱等レパートリーを次々と広げていく頃が満開、高音を維持しながらも、声が少しずつまろやかに変化していく中、歌そのものに取り組んできた時期を散り際へと向かう時期と考えるならば、「ボーイ・ソプラノの集大成」として企画されたこのコンサートの位置づけは自ずから明らかになってくるでしょう。もともと、奏やんは、ボリュームのある歌声で聴き手をうならせるようなタイプではなく、歌に情感を載せて歌う繊細さと抒情性を持ち味としたボーイ・ソプラノです。しかも、この日は、クラシック ボーイ・ソプラノ定番曲 合唱曲 JーPOP ボカロ(ボーカロイド)の5領域の歌を聴かせるというプログラムで構成され、「奏やんの音楽旅行」と名付けられました。最初の挨拶の中で奏やんは、このコンサートを「小さなごちそう」という謙虚な表現で紹介しましたが、確かにこのコンサートは、宴会向けの大皿に料理が豪勢に盛り付けられた皿鉢(さわち)料理や、大テーブルに大皿で運ばれてきて数人で取り分ける中華調理のフルコースのようなものではなく、精選された小皿料理を一つずつ味わうようなコンサートであったと言えるでしょう。

  
プログラム

   ~第1部~

森の小さなレストラン 作詞:御徒町凧 作曲:森山直太朗
いのちの名前  作詞:覚和歌子  作曲:久石譲
贖罪  作詞・作曲:傘村トータ
明日への手紙  作詞・作曲:池田綾子
しあわせ運べるように 作詞・作曲 臼井真
含唱曲 群青 作曲;小田美樹 作詞:福島県南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生(構成:小田美樹) 編曲:信長貴富

      ~第2部~

Le violette Alessandro Scarlatti
Ombra mai fu(largo) Georg Friedrich Händel
絵本『ピカルとピカラ』テーマソング いっしょに 作曲 作詞・作曲:やまもと てつや 編曲:おかむら あやか
いのちの歌 作詞:竹内まりや(Miyabi) 作曲:村松崇継
彼方の光 ~Far Away~ 作詞:Robert Prizeman 作曲:村松崇継

        アンコール

あなたの夜が明けるまで  作詞・作曲:傘村トータ
Lascia ch'io pianga  Georg Friedrich Händel

   
情愛あふれる曲で奏やんの持ち味発揮
 
  このコンサートの始めに、奏やんは、マイクを手にして意外なところから登場して「森の小さなレストラン」を歌いながら階段を上り下りして客席と一体化する工夫等を採り入れてステージを構成していました。純然たるクラシックのコンサートではないのですから、このような意外性のある登場の工夫もあってよいのではないでしょうか。ただ、緊張もあったでしょうし、マイクの位置や角度の関係もあってか、歌声は、第1部の中頃から次第によく響くようになってきたように感じました。3曲目の「贖罪」は、ボカロと言うジャンルの曲ですが、重い内容ながら、誰もが気付かぬうちにしてしまいがちなことを「罪」と捉えてそれが次々と並べられ、心に迫る曲になっていました。
 奏やんは、それぞれのステージの最後にその持ち味がよく現れるようなプログラムを組んでいました。奏やんが所属する神戸室内アンサンブル少年少女合唱団は、東日本大震災後に誕生した合唱団ですが、歌による青少年育成と被災地の復興支援を理念とした合唱団でもあり、そこで歌い続けることでこのような歌に添えられた心を深いレベルで把握することにつながったのではないかと感じました。第1部の最後を飾る「しあわせ運べるように」は、30年前の阪神淡路大震災で被災した神戸の復興を歌っていますが、この歌は「第二の神戸市歌」として市内では、各小学校、追悼式典、ルミナリエ、成人式等で歌い継がれています。また、復興の歌として全国各地でも歌われています。これが、ご当地在住の奏やんによって歌われると、格別な味わいがあり、歌にこれまでの積み上げのようなものを感じます。「群青」は、東日本大震災で被災して、全国各地に散りじりにならざるを得なかった福島県南相馬市立小高中学校の生徒たちの言葉をつないで作曲された曲だけに、歌に情愛が盛り込まれて、たとえ今は離れていても、きっとまた会おうという心のつながりを感じました。このあたりに、奏やんの歌の特性がよく発揮されていたのではないでしょうか。
 歌のコンサートは、歌い手だけによって成り立つものではありません。伴奏の小縣一正は、常に歌を支えるような伴奏や舞台上での出入りを含む所作を支えようと心がけ、司会の大西寧々は、単なる曲の解説以上の人と歌との関わりを伝えようとしていることを感じました。

   
ボーイ・ソプラノの最後の時期に歌われることが多い“Ombra mai fu"

 第2部は、イタリア古典歌曲の“Le violette”で始まりました。この曲は、優美さにおいて優れた曲であり、また、中間部のfra le foglie の部分の歌唱は、器楽的な表現が求められると同時に、声楽的な柔らかさの両面が求められます。こういう曲において技巧を目立たせずに歌ったのはさすがです。“Ombra mai fu"は、ヘンデルの作曲したオペラ『セルセ』(Serse, Xerxes)第1幕冒頭のアリアで、ペルシャ王セルセ(クセルクセス1世)によって、プラタナスの木陰への愛が歌われています。また、この歌は、多くのボーイ・ソプラノの少年にとってボーイ・ソプラノ最後の時期に歌われる歌になっています。それだけに、華やかさよりも静けさ、技巧よりも滑らかな歌い方、感情の爆発ではなく穏やかで慈しみある表現が重視されます。奏やんのこの歌には、そのような自然で気高い美しさを感じました。
 絵本『ピカルとピカラ』テーマソング「いっしょに」は、初めて聴く曲で、どうしても手話的な動きの方に目が向きがちだったのですが、温かい心の通う曲です。なお、この曲の作詞・作曲者の山本哲也(やまもと てつや)先生は、翌日の神戸室内アンサンブル少年少女合唱団の司会と指揮をされることでその姿に初めて接しましたが、穏やかな語り口と指揮する姿に感じられる秘めた情熱に「音楽は人」ということを強く感じさせる方でした。さて、「いのちの歌」は、奏やんのテーマソングのように、蕾だった頃から歌い続けられてきました。 この日の演奏は、何よりも落ち着きのある情愛あふれるまろやかな演奏で、この歌の行きつく先はきっとこういうところにあるのだろうと感じさせる歌になっていました。プログラムの最後を飾る「彼方の光 ~Far Away~」は、「清澄さ」や「宗教的荘厳さ」を感じさせる歌に仕上がっていました。この2つの歌に共通することは、作曲者が村松崇継であるということで、哀しみと希望を同時に感じるような聴き手に共感を与える作風で、これが奏やんの歌声と親和性が高かったのではないでしょうか。

   
ボーイ・ソプラノとして奏やんの歌の集大成

 アンコール曲は、この日の最高音が出る「あなたの夜が明けるまで」とヘンデルのオペラ『リナルド」のアリア“Lascia ch'io pianga”が歌われましたが、“Lascia ch'io pianga”は、レチタティーヴォ(叙唱)の部分から歌われる完全版で、驚いたのは、装飾音(カデンツァ)が、これまで聴いたことのない独自なものだったことです。この曲が作られた時代は、カストラートの全盛期で、当時の歌手たちは、自分独自の装飾音(カデンツァ)の華やかさを競いあったことでしょうが、この歌にはその時代の歌唱の片鱗のようなものに触れることができました。
 ボーイ・ソプラノは、最初は高い声が出るというところから、だんだん歌声がまろやかになってきて、変声期の直前に最も美しく輝き、やがて変声期を迎えると言われます。それが、ボーイ・ソプラノの歌声の成長の特質ならば、この日の演奏は、ボーイ・ソプラノとしての奏やんの歌の集大成と言えるのではないでしょうか。